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旅行・地域

2017年1月 5日 (木)

宇佐美の海岸と熱海の観梅苑(17年1月3日)

 昨夜は、ついついブログを上げていたら、深夜になった。もはや今朝は、睡眠不足で海には出られない。ヤケクソで続きを書いておく。

 17年のつれとの正月は久しぶりに伊豆。お金がないので、民宿泊まり。それでも温泉だから。折角カメラ持参で重たい思いをしながら行ったのだから、何か撮りたい。

 17年1月2日は、伊東経由宇佐美へ。何も撮るものなし。何かないの?

  17年1月3日。暫く電車が来ないので、宇佐美の海岸に。野鳥がおる。

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電柱にカモメ類。このボリューム感がたまらない。ウミネコだ。

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ユリカモメとハクセキレイ。共にスタスタ歩く。

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コサギ。風に吹かれてザワザワ。

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ユリカモメ。砂が黒い。

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一瞬、翼を広げた。みごとなポーズ。

このほか、クロサギとトビがいた。あっという間に1時間経過。

来宮に電車で移動。大勢が降りた。まさかみんな梅苑かい? まさかね。どうも来宮神社に行くらしい。

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未だ咲きはじめだ。

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スイセン。伊豆の春。

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白梅。

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こちらはアタミザクラだそうです。大ぶりできれい。

韓国庭園だとさ。

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おお、金大中(キム・テジュン)さんだ。森が「友好」で、金が「平和」か。意味深だ。韓国の民主化運動の意義を見直さなければなるまい。

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韓国の住居。此処で韓国と出会うのも何かの縁だな。以前に来たときはなかった。

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ボケ。真紅がいいね。

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カエデの実。情緒があるな。

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中山晋平の住居(移築)。タクシーの運転手さんが熱弁を振るって案内していたので、ついつい撮った。

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サザンカ。

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此処は梅園だから。

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ロウバイのつぼみ。

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ロウバイ。花弁の透明感を出す。

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紅梅も。何だか梅に興味が湧かなかった。余談ながら、梅も中国からきたものだ。

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マンリョウ(「ナンテン」と記しましたが、訂正します)。赤がまぶしい。

以上梅園でした。静かで良かった。

途中でシジュウカラをみた。ヤマガラも。駅に向かう途中で眼下に電車が走る。

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伊豆急だ。撮り遅れたのでヘッドを逃がした。フェンスを消すこともできなかった。失敗作だが、無意識にフェンスの位置は、外していない。電車を×(ペケ)にしていない。これも普段の訓練の賜物だ。あぁ。

そして私は実家へ。皆元気そうだった。

















2016年10月18日 (火)

呉軍港の今(16年10月12日)

今回の私の岩国行きは、やはり呉にも足を伸ばした。そしていつもどおり広島の宇品港から。天気は曇。

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航跡が拡がる。8時19分。

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美しい自動車運搬船。だが美しさに飲まれてはいけない。

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呉港に入ってきた。海自潜水艦が行く。

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輸送艦くにさきが停泊中。

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新造のタンカー。

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練習艦が行く。これが呉港。9時15分、下船。

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石川島播磨重工門前。

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ここで戦艦大和が造られた。戦後も軍艦が造られたり、修理されている。左はタンカーだろうが、右はヘリ空母「いせ」 13500トン。ジャパン・マリン・ユナイテッド。

https://www.jmuc.co.jp/

巨大軍事産業だ。しかし一見民需のものでも大型タンカーなどを造る発想に、軍事が組み込まれているのが現代だ。でかいことはいいことでなない。でかいことは戦争への道に直結していく。

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いせ。

先に進む。

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おおすみがでる。

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見送りの人がいる。しかし静かなたたずまい。ここから兵隊を載せるわけでないから。

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石播の裏門。「昭和ふ頭」。ノスタルジーなのか。未だに軍艦マーチと戦艦大和の亡霊が私には見えてくる。

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くにさきが入港。

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石播前を通過する広島電鉄バス。「ⅠHⅠ」は車体広告だが、軍都呉の町らしい(うがち過ぎか)。

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海自呉総監部前。

今回、輸送艦4001,4002,4003がそろい踏みだった。おかしいなと思ったら、出て、入った。多分、西部方面隊の実動演習を送るのだ。ジャストなタイミングの私の呉滞在3時間。

参考http://photoyamahide.cocolog-nifty.com/yamahideblog/2016/10/1610-9491.html

今の呉市の人口 231715名(16年9月末)
 














2016年10月15日 (土)

わさわさの1日(16年10月15日)

 今日の本題は別途書く。朝、辺野古に出遅れた。バスで行ったのだが、降りた途端の大雨。辺野古公民館の庇をお借りしながら、雨具を着る。ふー。今日も風が強く、テントの看板類の一部が飛ばされていた。油断できない。

 昼すぎにベントス学会のお二人が見えた。ベントスとは底生動物のこと。海や川の砂の下に生きている生物達。私からご挨拶。彼らは貝の研究者。「大浦湾の貝」のパンフをお見せした。大変興味をもたれたようだ。

 私が祝島(山口県)のことをお話したら、最近でたばかりの「レッドリスト上関2016 上関(かみのせき)の稀少野生動植物」(上関の自然を守る会発行)をいただいた。表紙がカンムリウミズズメ。嬉しいプレゼントだった。

 夕方昨日に続きツノメガニの研究。彼らとにらめっこ。そしたらヘリの編隊が沖合いを行く。うるさいと思ったが見ないわけにもいかず。テントの面々が自衛隊と。4機編隊だ。撮影したが、望遠レンズに4機全部入る。遠い。

 で帰宅。なんとオリイオオコウモリが2羽。間近を飛ぶ。首の黄色味もはっきり見えた。そろそろ名護の空にサシバが舞う季節だが。

岩国基地探訪(17年の米軍再編を探る)

山口県の東端にある岩国基地は、米軍再編の要になる基地だ。①沖合いに滑走路を出したことにより、周囲に及ぼす騒音等の被害が減じた分、改めて空母艦載機(57機)の母港となる(17年)。沖縄の普天間基地から空中給油機が15年に移設された。また、海兵隊の戦闘攻撃機ハリアーの後継機であるF-35Bが17年に配備される計画だ。②滑走路と同時に岸壁が建造され、基地の中に飛行場と岸壁をもつ、まさに戦略的な基地群に強化された。③オスプレイの搬入がこの岸壁から運び込まれ、普天間に飛んだ以降(2012年、13年)、沖縄と日本を結ぶ中継基地としての意味が確立された。

 という意味で私達は今後も岩国基地の動向をおさえていかなければならない。私が岩国基地を訪れたのは15年4月以来の1年半ぶり。

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今津川河口近くから撮影。着陸した海自EP-3電子戦データ収集機。駐機場に向かう。15時47分。

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タクシング中の手前がEP-3電子戦データ収集機、タッチ&ゴーを繰り返しているのが、UP-3D訓練支援機。海上自衛隊。15時47分。

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飛行場周遊道を巡回中の米国海兵隊の消防隊。16時13分。

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滑走路に向かうANAのボーイング737。左前方が海自のus-1A救難飛行艇。軍民共用空港になったが、飛行場の管制権も米軍にある。16時24分。

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飛び立った救難飛行艇。16時28分。

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河口の岸壁をみれば。立ち入り禁止。そりゃ危ないから。16時23分。右上は救難飛行艇。

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ざくざくと屋根つき駐機場が見える。40個。FA-18ホ-ネットがいるようだ。先日グアムから帰ってきたばかりだと。16時35分。

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KC-130空中給油機が何処からか帰還。普天間にいたやつのようだ。16時42分。

以下10月13日午前。

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工事作業者が列をなしている。8時35分。新連帆橋。

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工事は進み、最終段階に。9時17分。

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滑走路北端そばのF-35Bの着陸帯。赤と白の手前。9時17分。

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今津川河口部。アメリカ人らしい支配者然とした対応だ。9時27分。

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弾薬庫も奥に移転させられた。10時2分。

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奥を飛ぶSH-60哨戒機。10時25分。

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US-2海自救難飛行艇。真上を飛んだ。10時53分。

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海自のMH-53Eシードラゴン。真上を飛んだ。

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真上を飛ぶ、ボーイング737。11時9分。美しい。

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11時9分。実に美しい。民間機は麗しいものだ。珍しく民間機の美しさにほれた1枚。しかしここは軍民共用空港だ。常に米軍の運行が優先されているはず。

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アップ撮影。11時10分。

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着陸した機体を洗浄する。海の上を飛ぶから余計にこの洗浄の水量は多いはず。界面活性剤の使用も。油水分離槽は設備されているだろうが、汚染源になりかねない。海自の駐機エリア。11時28分。

2016年7月31日 (日)

伊江島点から点へ(16年7月5日、6日)

 去る7月5日、6日の伊江島は無論、米軍演習場の拡充工事の実態を見に行ったのだ。私の下調べが不十分で、随分取りこぼしがでた。「よく調べろ」との診断を下したのだった。

 で、伊江島の2回目は、米軍の点から点の間の自然等を紹介しておきたい。

 なお、撮影に当たって重要なことは、如何なるコース選定をするかが結果を大きく左右する。伊江島は卵型。楕円形だ。これを時計回りで行くのか、反時計回りで行くのか。太陽の動き(光源)と自分のそのときの目的意識で決めればよい。

 7月5日は反時計回り、6日は時計回りにした。天候は両日共に晴れであり、程ほどの結果となった。

 16年7月5日朝、名護から本部港に向かう。

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伊江島行きの船に乗り込む。8時53分。右奥の船はクイーンコーラルプラス(鹿児島から来ているフェリー)だ。

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9時11分。伊江島に近づいてきた。城山だ。

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気持ちよさそう!9時12分。こんなレジャー、羨ましい。

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伊江港。9時25分着。

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港のそば。ブッソウゲの1品種。10時9分。

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伊江島に上がって、城山のほうに北上する。ブーゲンビリヤがいいね。10時37分。

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海兵隊の基地群を見ながら西へ。城山と雲が美しい。但し暑いぞ。10時57分。

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海兵隊演習場のそば。キンパラがきていた。14時53分。

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西の南の道。伊江港に戻る途中。16時11分。全く日陰がないから、かなり消耗した。だからこそ海が鮮やかに見える。

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ここは昔の水源地。住民に水は貴重なものだった。今では本部から海底ケーブルで送水している。16時23分。

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暑い日ざしに映える花。何だろう?クモの糸がからみつき、光っている。16時42分。暑いからこそ撮りたくなった1シーンだ。

7月6日。今日は時計回り。

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小学校の塀の上に覗いているのはホウキ。ここに猫でも居たら最高なんだけど。6日8時46分。

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6日9時17分。サトウキビの残骸を回収し、次年度に備える。サトウキビの収穫は2年に1回。順繰りに収穫するのだ。

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ゲットウの実。9時29分。

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あるお宅の入り口で。美しさに参った。9時43分。

この後は海兵隊基地に肉薄しました。別掲にします。ツバメチドリの件は既報です。













2016年4月20日 (水)

長崎市、佐世保市、対馬に佐賀空港

旅先で考える

1:何故旅に出るのか?

 毎回旅に出る度に、何をしたいのか、何を撮るのかを考えながら企画を決めて、実行する。ただ余りにも時間がないので、準備不足は否めない。初めてでかけるところは、さすがに知らない分、準備するのだが、数回行った事があれば、まぁこんなものでと行ける分、杜撰になりがち。困ったものだ。

 同じ場所にいると、段々と鈍感になることもある。だからこそ新鮮な感覚を求めて、違いを分かるために旅にでることがある。

 私の旅は、軍事の追いかけと、自然を撮る事の2つに絞られている。また、武力に拠らない平和を求めることだろうか。旅に出るのは、もちろん空間の移動だが、空間を動けば、その場、その場の時間を巡ることになる。私が定めている歴史的位相は近代以降だが、しかし近代以前の影響を無視できないと考えており、いまさらのように近世以降まで辿る事がある。

 こう考えれば、どこに行くのも知らないことだらけ。とても観光ガイドは役立たず、事前に本を求め、旅先で資料を求めてくる。特に何度も行かなければと思い定めているところの資料はたまってくる。

 撮影はこうした集積智の結晶になれば、いいものができるはずだ。大きな課題。

 

2 長崎市、佐世保市、対馬、佐賀空港を巡って

 今回は大急ぎで回った。長崎市は先ずはプロローグであり、何はなくても長崎市だろの類。佐世保は海軍基地と陸自の相浦駐屯地、対馬は陸自の対馬警備隊と朝鮮通信史、佐賀はオスプレイ基地が予定されている佐賀空港。

 長崎市には多分10回ぐらい出かけている。原爆の長崎であり、軍事産業の町。三菱重工や石炭の採掘の歴史。佐世保は書いたとおりだが、これから陸自の基地が強化されようとしている。対馬は朝鮮有事を見据えて警備隊と称する部隊が琉球諸島以前に配備されており、かつ陸・海・空の3自衛隊がそろっている。ここは対馬藩の時代から、日清・日露の戦争以来、防人の島として苦難をなめさせられている。多分調べれば調べるほど、歩けば歩くほどさまざまな問題があるだろう。佐賀空港はこれからのオスプレイ配備を巡って焦点化されてきたが、今回私はまず第一歩を記してみた。

 4月5日、6日に訪れた長崎は、5日夕に、長崎中華街だろで、行ってみた。ところが何故か本日閉店のお店が多く、いつもの賑わいがない。もともと中華街でも横浜の中華街と比べてはならない。横浜が大きすぎであり、また、長崎の小ささは官許の場だからこその規模によるのだろうか。

 長崎は異文化が混在した街であり、さまざまな軋轢があったのだろうし、あるだろう。だからこそ、観光という表の顔じゃない部分も分かれば、奥深い現状を理解できるはずだ。

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長崎港。対岸は三菱重工。行きかう五島列島などへの連絡船(赤のライン船)。

 6日朝に行ったグラバー園は1863年スコットランドのトーマス・ブレーク・グラバーが居住した家を中心に、後に移転させた洋館ともども鎮座している庭園(1974年開園)。長崎の街は江戸幕府の鎖国の中で、海外居留地になり、海外の人と文化を受け入れた「国際交流」の地だからこその歴史がある。グラバー園の長崎湾の対岸に三菱重工の古くからのドックがあり、この庭園は三菱を見渡せる特等席だ。今回はさしていなかったが。

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大浦天主堂。

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グラバー園から望む三菱重工のドック群。護衛艦が修理中。

 佐世保は6日午後相浦駐屯地を回った(別稿で触れる予定)。7日に海軍基地を回る予定にしていたが、生憎の風雨で中止。こちらは沖縄に居るので、豪雨みたいなものには慣れているのだが、無闇に濡れても悲しいだけ。撮影は不可だし。

 ただ休憩にするのはなんなので、佐世保市の図書館に行った。2度目だが、郷土資料のコーナーが充実している。文学では村上龍とかも佐世保出身。いやはや久しく読んでないが。

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相浦駐屯地。相浦川対岸から。トラックや燃料タンクが見える。

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駐屯地の近くにある大崎教会のマリア像。

 対馬は8日と9日に行った。ささっと2日間だけ。前回の14年5月に対馬警備隊の演習場(上見坂展望台周辺)の場所を突き止めたので、今回もこのルートを巡った。今回は遭遇せず、不発。私が考えるに、同島内に他にも演習場があると思われる。ここは朝鮮戦争に備える警備隊だから、難民対策と、難民に紛れ込む対テロ作戦が中心になるはずだ。この調査も不発だったので、私が想定している場所については、確証を得てから明らかにしたい。

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厳原。イカを干している。

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朝鮮通信使の碑。厳原。朝鮮との外交が対馬藩の努力で重ねられた。江戸幕府にも行列をつくり交流を重ねた。

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対馬警備隊(厳原)を見上げる。

 むろん私が対馬にこだわるのは、警備隊が石垣島や宮古島に置かれる動きを見通して居るからだ。ただ対馬は朝鮮戦争に際して、地理的地形的に後方支援にほぼ限定されるが、琉球諸島の場合、中国と正面から構える形になり、後方も前方もない。ある意味で最前線になるのだ。

 対馬に私が興味を覚えた根拠に、対馬藩の歴史がある。かのちは森の島。田んぼは極小。経済基盤が貧しい。だからこそ、彼らは平和外交に徹しようとしたのだ。一番近い、朝鮮とも仲良くしようとした。そこをあの豊臣秀吉が朝鮮侵略に駆り立てた。対馬藩は苦悩しながら、後背地としての協力をさせられたが、侵略の尖兵にならなかった。因みにこの時間に稼いだのが島津藩だ。領土を拡張して、石高を上げて、琉球支配の基盤を作ったのだ。日本史から見ると朝鮮、沖縄とみえてくるのだが、琉球史から見ると、また別の構図が見えてくる。こんな事は学校教育では決して習わない。「正史」からはずれているからだが、侵略された側から見ることが益々重要になっているのが現代だ。

 県立対馬歴史博物館(在、厳原)に今回寄ってみた。貴重な資料をたくさんもっているのだろうが、展示品は猫の額の規模。対馬藩の平和外交などまるでなかったかのようだ。がっかりさせられた。学芸員の活躍と住民の支持を期待したい。

 同じ島に自衛隊がおり、平和外交の歴史がある。島の人が平和をもっと発信できないのだろうか。

 自分の勉強不足があり、もっと調べなければならないが、武力に拠らない平和を追い求め、連帯していければ、そこに武力が配備されていても、ひとつの可能性はあるはずだ。沖縄島だって歴史から学び直してきたのだから。

 それにしても韓国人観光客の多さに、圧倒される。言葉が分かれば民衆交流が可能になるはずだがな。

 佐賀空港は行っただけの時間(数時間)しかとれず。地図もなく(調べたらでてきたが、あとの祭り)。ここをオスプレイの拠点にするとすれば、反対があるからだけでなく、狭い。土地の拡張が必要になるだろう。ないしは小規模の基地にしてから、おいおい拡張の話がでるのか。ここ南側が有明海であり、漁協が反対している。眼と鼻の先にオスプレイは嫌でしょう。当然だ。決して造らせないことだ。

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佐賀空港。有明海の海苔罅が見える。

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佐賀駅南の小公園で。パンジー等が美しかった。

2016年1月 3日 (日)

何故か初春の旅が広島へ

 2015年1月1日16時40分過ぎ、広島駅に着いた。途中飛行機がやや遅れ、また新幹線もやや遅れして、約束の時間を過ぎてしまった。今回は自分が飛行機に乗り遅れたとかのミスじゃないので、勘弁してね。

 今回の新春の旅は、広島・宮島。何故かと説くほど確たる根拠無し。お互いの距離のほぼ半分であり、交通の便もほぼ同等。広島ならば土地勘もあり、事前の調査もさほどいらない。

 なお宿の予約は連れ合いがやってくれました。感謝。

 そうはいっても広島に来た以上は、原爆ドームぐらい見ておかないと。翌朝、平和記念公園から原爆ドームへ。

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元安川上流から

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この建物は旧広島県産業奨励館(1915年築)。101年目であり、被爆から71年を迎えるのだ。この建物に何を見るのか?
建物は良くぞ崩壊しなかった。内装はがたがたと壊れたようだが。どれだけの死者がでたのか、今日の課題は建物論?
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ごらんのとおり改修工事をやっている。ぼろぼろなので、倒壊しないようにということらしいが、簡単に補修できないだろうに。補修しきったら、原爆ドームじゃなくなってしまう。絶対的な矛盾の中にある。世界遺産だし、ヘンな補修は不可能だ。

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若い子達が何気に見ている。

そして今回のメインエリアである宮島に向かう。ここも観光地であり、小難しい話はなしでならば、ここかの類。

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これは何か? 宮島口からフェリーでわたるのだが、混雑具合は半端じゃなかった。隙があれば、おつめくださいと係員が叫ぶ。将棋倒しの予兆がないのが、不思議なくらいだった。がさがさしていないのだ。自分が一番がさがさ、ぞわぞわか? 

 フェリーのはずが、車両は0台。人人人の渦。定員とかないのかよ。切符はノーチェックみたいだし(対岸で切符を取られた)。

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こんな船で渡る。たかが10分だが、海難事故にあったらどうしよう。

宮島と言えば厳島神社なのだろうが、私は神社仏閣にまるで興味がない。これはイデオロギー以前の問題なのだ。観光客は厳島神社に流れていく。我々は「陸軍道路」へ。高射砲陣地でもあったのかと、探ってみたが、どうにも其の痕跡は見当たらず。人が居ない分、良かった。

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ニホンジカ。木々の中からぬっと姿を現した。

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アセビの花。

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5重の塔と豊国神社(千畳閣)。こちらは秀吉ゆかりの建物らしい。

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厳島神社への入り口。大ラッシュだった。こちらは平清盛が増築したとか。

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午後、ロープウェイで昇った。瀬戸内の海が見える。もやがかかっており、今一の光景。

そんなこんなして、1日が経って行くのだ。ロープウェイもこんでいたよ。

私にとっては難しいこと考えずに、のんびりできれば、よしなのだった。

宿は値段の割りに、程よい感じだった。夕食はもちろん、カキフライ。観光地仕様の値段だが、味はまずまずだった。

1月3日、飛行機の時間の関係で早めに宮島を経つ。

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帰りのフェリーはちゃんと車も乗せたフェリーでした。宮島の上にかかる絹積雲が美しかった(7時58分)。

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宮島口駅前風景(8時13分)。何の変哲もないが、これをとるのに、自動車が去り、人が去り、じどうしゃが去るまで待ったのだ。そうしないと正面の絵が見えないからね。

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広島駅構内で食べた朝食(9時6分)。これは3枚撮ったうちの一枚。パンも案外光るのだ。パンの反射率やコーヒーの反射率がもっともおいしそうにみえる露出を選択(マイナス3分の1補正)。

 帰りは広島空港から那覇空港へ。那覇からも寄り道せずに帰ってきた。













2015年11月 9日 (月)

東京の真ん中を歩く

2015年11月7日曇空。東京駅から有楽町へ。

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東京駅、2題。

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イチョウの黄葉が珍しいから。何気に。

因みにクラス会の撮影は、某カメラ会社の男にお任せ。

2015年9月 2日 (水)

出会いから始まった信州乙事の沖縄度

 信州の思い出といえば、きりがないほどだ。山上、峠、高原、新雪・残雪、野鳥達、戸隠のおそば、とうもろこし、高原野菜、林業、唐松林の黄葉、山麓でのジャズフェス・八ヶ岳バレェ、今は亡きFさんとの新雪降る中の北八ヶ岳。こんなこともありました。志賀高原から下りてきた長野市内で聞いたニュース。ソ連軍チョコスロバキアへの軍事介入。「プラハの春」への弾圧でした。1968年8月21日。やりやがったな!と。余談ながら、その後にできた米国映画「存在の絶えられない軽さ」の医師とフォトグラファーの恋愛悲劇の印象は格別でした。

 今回の旅の中でも、あの本多勝一記者(当時)は信州伊那谷の出身だったことを思い出しました。ベトナム戦争や中国の取材で、健筆を振るっていた彼は満蒙開拓の歴史を知ろうとしていたのでしょうか。また作家の新田次郎さんの碑を阿智村で見ましたが、彼が書いた「霧の子孫達」は霧が峰の自動車道の開発反対の運動がモチーフでした。

 で、今回の信州行きの話は、2月に辺野古・瀬嵩でお会いしたKさんから始まりました。ぜひとも乙事キャンプでパネル「辺野古・大浦湾」を展示したいとオッファーがあったのです。しかし私は野外展示は不可とお断りしました。雨天に耐えられないパネルなのでと。対応できるように何とかするからとKさん。私は粘るKさんを信頼してお貸しする事にしました。2月にお会いしたときの印象から、しっかり対応する人だと推量できたからです。

 そんなこんなでしたが、自分が行くとは考えていませんでした。夏休み・八ヶ岳山麓・富士見町乙事、阿智村とのダブルでとなりました。突然行きますと連絡したら、喜んでとなりました。そのうえ、28日夜、里山セッションをやるからこれに間に合うように来ればといわれて、大慌てで日程を変更しました。このへんは「ヤマヒデの泥縄術」そのものです。

 《28日乙事キャンプ場にて》

 28日夕方予定通り富士見駅着。駅まで迎えにきてくださり、即会場に向かいました。森の中のキャンプ場でした。ブースは案外しっかりしたテントでした。隣はもっと大きなテントです。見慣れたジュゴンのTシャツがかけられていたり、辺野古テントや高江、普天間の写真が展示されて居ます。ここも沖縄展示でした。聞けば6月に沖縄に来て辺野古テントにも来られたと。丁度私は南部に行っていた時でお会いしていなかったのです。㈱緑化創造舎は社員旅行で全員できたのだと言います。そんな会社があるんだと感激してしまいました。辺野古基金にも会社として送金していただいたようです。そして3つ目のブースは沖縄そばの店。彼女が沖縄生まれのかたで、有機農業をやっています。沖縄そばをおいしくいただきました。また映画「圧殺の海」の主題歌を歌ったイェーツの公演もありました。もちろんご挨拶しました。

 沖縄度の高いキャンプです。信州まで来て、沖縄に拘っている方々にお会いできて、嬉しかったです。こんな奇遇を活かさないわけにいきません。

  《里山セッションが予感させてくれたこと》

 19時から始まりました。「八ヶ岳のくらしを 知ろう・聞こう・しゃべろう!」を掲げたセッションの第1回目。小雨の中で、静かに始まりました。プレゼンテーターの皆さんは、張り切っています。トップバッターのOさんは「これからの農業はもっと面白くなる」、K・Mさん(だんな様)の「自給的な暮らしを楽しむ」、S・Mさんの「自然とのつながりをもった生活を基軸にした保育」、S・Yさんの「増え続けるメガソーラー問題」、N・Hさんの「やりたいことをやって生きる」、そして㈱緑化創造舎さんの「『山』から感じること」。何れも簡潔にして要点を押さえた報告でした。トップの話は聞き損ねました。

 Kさんの話はそもそもの暮らし初めから自分で井戸掘り(手堀)から始めた事。建物の建築、倉庫やヤギ小屋の建設など何れも手作りの妙。農の稼ぎのありかたまで。保育士さんは野外での自然保育を実践しています。雨でも冬でも。迫力が違います。Sさんのメガソーラー問題には驚かされました。森を壊して立てられている太陽光発電設備。電力市場に遠いところに発電所を作っても意味がない。しかしもはや投機の対象らしいのです。森を壊す金儲け。冗談じゃありません。Nさんも農業ですが、生産の場のみならず販売にも力を入れていると。自前の情報源を活用しながら、販売を重視しています。緑化創造舎さんは自前の林業報告でした。間伐をしながら木材を有効活用し、森の復活に取組んでいます。時間外は食べて飲んで、しゃべってを社員一同でやっており、6月に辺野古に行ったと。山から海への連帯感。暖かで真剣です。

 こうした報告の表層ばかりを見ていてはなりません。問題意識の背後にあるのは、環境との共生を意識した持続可能性であり、経済成長主義の克服でしょう。TPPや原発、新基地建設を向こうにまわした大転回です。今は個の活動ですが地域の中で結びつけば大きくなるはずです。住民自治に目が向いているような流れに私は賛同しています。

 このままグローバリズムが進行して行けば、自然は資源である限りで評価されますが、環境としての把握は失われ、生物としての存在は破壊されていきます。この根本的な転換に私達は歩を進められるのでしょうか。今深刻に問われている事柄です。

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◎原村のツリフネソウ

 《29日 イベントの中で、話してきました》

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◎乙事キャンプメイン会場前

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◎ドラムかんのピザ焼きの装置

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◎こちらは簡易コンロ(紙と小枝でご飯炊きも可能)

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◎リラックスしながら聞く、踊る

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◎元じゃがたらのOTOさん。自作の「つながった世界」を自己紹介。熊本から来た農民です。3・11以降2回目の遠出だと。彼とも少々お話が出来た。つながれる人は案外いるんだね。


 29日も小雨。雨ならば写真の展示はできません。創造舎さんのテントを借りて話しました。彼等が用意した写真も活用しながら。長野と沖縄の関係に触れながら、沖縄戦から今までを、1ステップ、現状から近未来までを2ステップ。約25分づつ。ほぼ2回ダブルで聞いてくださいました。愚かな政治を脱却して次のステップにもっていけるのか、ことは山でも海でも基本、変わらないでしょう。お互いに接点を探りあいながら、展望を語り合える予感がしました。

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◎テントの中で話すヤマヒデ。これは三上智恵さんの映画の紹介中。(K・K様撮影)

 以下は私の教訓。時代の転換は短期的な怒涛のような奔流と、長期的な胎動があります。短期と長期を重ねながら、住民自治の営みを力にしていきましょう。

  関係者の皆様、本当にありがとうございました。リフレッシュばかりか思わぬお力添えをいただきました。今後も交流を深めてまいりましょう。ありがとうございました。

 

2015年9月 1日 (火)

満蒙開拓平和祈念館(長野県阿智村)に行ってきました

 今年は「夏休み」を是非とりたいと考えました。どうしようと思い悩みながら、リフレッシュできて、為になる企画を練りました。8月30日の行動があり、東京では「統一マダン」もあり、時間とお金の制約の中で、決断は4日前。懐かしくて涼しい信州2本勝負。阿智村と富士見町乙事キャンプ。

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①満蒙開拓平和記念館との出会い-2年越しの思い

 私は満蒙開拓平和記念館のことを2年前に知りました。沖縄に居を移すならば其の途中で見て行こうとわざわざ中央線・飯田線経由で行き、昼神温泉に泊まって、中部国際空港から那覇空港に飛んだのでした。しかし同館は休館日。入り口前で私はしばし呆然。

 なお宿泊するなら昼神温泉を(バスですぐ)ご利用ください。以下を参照。http://www.hirugamionsen.jp/

 

 何故満蒙開拓に拘るのか? これを書いておきましょう。私たちの先人たちは、何をしてきたのか。

「脱亜入欧」と言いながら、「大東亜共栄圏」、「5族協和」・「王道楽土」を唱えて侵略しました。アジアの民を、人々を迫害し、駆逐し、収奪したのです。日本軍は村を焼き尽くし、物資を奪いつくし、人々を虐殺し、レイプした。これを「聖戦」だと呼んでいました。呆れたことに。

 1932年の満州国建設、満蒙開拓は日本軍である関東軍の武力制圧の中で可能となったのでした。武力で脅されなければ、攻撃されなければ、中国の農民は自分の土地を明け渡しません。ここを日本人の移民が「開拓」したのです。もし私達が自分の土地から出て行けといわれたら、ハイとは言わないですよね。

 私達は今こうした過去を許容するのですか? 「否!」と否定するのですか。

 私の母方の伯父に満州鉄道の社員だった人がいました。私が知っていた彼は染織家でしたが、そんな時代もあったらしいのです。私が子ども時代に聞いたことなので、残念ながら有効な記憶はないのですが、「おいしい話」もあったような話しぶりでした。余談ながら、彼の兄は沖縄では有名な染織家でした。自分が大人になってから話す機会をもてなかったのは悔やまれます。時間は戻らない。

 沖縄に駐屯した第32軍の多くは中国から転戦してきた部隊です。殺しつくし、焼き尽くし、奪いつくしてきた部隊です。自分たちがやってきたことを米軍にダブらせて、沖縄の住民に、お前達もそうなるに違いないから、降伏するな!自決しろ!と迫ったのです。「大日本帝国軍人」の非道を増幅させながら。中国侵略の影を刻印された沖縄戦。

 満州国建設には軍隊のみならず日本人庶民が「主人公」とされました。開拓団(移民)です。彼ら彼女らは中国で何を見て何をしたのか? 

 関東軍はソ連軍が侵攻することを以前に知っていました。だからさっさととんづら。逃げていました。知らぬは開拓団移民達ばかり。ここでも庶民は右往左往。ここでも軍隊は住民を守らなかった。

 沖縄に行って沖縄から考えるならば、「満州国の建設と喪失」の問題を無視できない。軍隊と言うものを考えるのに無視できません。

②やっと行ってきた

 私のドジもあって、2年越しの「恋」になってしまいました。今回は逆コース。中部国際空港から名鉄で「神宮前」乗り換え豊川稲荷駅。そこから飯田線に乗って、3時間余りでトコトコ天竜峡駅へ。私は時間の関係でタクシーを飛ばして(運よく1台だけ停まっていた)満蒙開拓平和記念館へ。20分、4000円。通常ならば飯田駅まで乗り継いでそこからバスで25分でバス停「こまんば」で下車(バス代400円)。そから徒歩で10分余り。

 ついでに新宿方面からならば、中央線に乗り、岡谷乗換え辰野、飯田と行ってバスです。バスは信南交通、時刻表を調べておくこと。

 そして着いた。小さな記念館でしたが見ごたえあり。整理された展示なので分かりやすい。私は90分いました。

 私は少なくない戦争と平和にまつわる記念館を見ていますが、ここは主体がはっきりとした記念館です。長野からの開拓・移民達。その後の歴史を含めて、主体がはっきりしているので、分かりやすい。運営は、一般社団法人 満蒙開拓平和祈念館 

③記念館展示概要 http://www.manmoukinenkan.com/ (記念館のHP)

 8つのコーナーに分かれています。1:序章(時代を知る)、2:大陸へ(映像で見る満蒙開拓)、3:新天地満州(希望の大地)、4:敗戦と逃避行(絶望の彷徨)、5:証言(それぞれの記憶)。6:引き揚げ・再出発(失意の帰還)、7:望郷(山本慈昭と残留孤児)、8:平和な未来へ(今私達ができること)です。

 私は実は順路を間違えたので、あれっと思いましたが、頭の中で順路を手繰りしながら、強引にみてしまいました。

 1:序章 年表。1905年日露戦争で満州の権益を取得。1931年満州事変、32年満州国建国、33年日本 国際連盟脱退、36年「満州農業移民20ヵ年100万戸送出計画」決定、37年日中戦争、38年満蒙開拓青少年義勇軍渡満開始、45年8月9日ソ連対日参戦、満州侵攻。当時の写真や私文書、公文書、雑誌記事等。

 2:大陸へ 映像で見る。試験(武装)移民、 分村・分卿移民、満蒙開拓青少年義勇軍、自由移民、勤労奉仕隊、帰農開拓団。

 3:新天地・満州 日本全国から送り出されたのは約27万人。そのうち長野県から3万3千人。最多です。何故? 当時の経済不況が養蚕の地長野県を直撃し、耕地面積の狭さもあり、補助金の出る分村移民へ。長野県は海外移民の奨励されていた土地柄も重なり。義勇軍の実生活に触れて紹介しています。

 展示は中国民衆への加害性を指摘していますが、やはり弱いし具体性にかけます。

 4:敗戦と逃避行 ソ連軍侵攻、日本政府の居留民現地定着の方針、棄民政策です。

 5:証言 体験者13名の記憶。じっくりと読む、別に映像もあります。

 私には「集団自決」(集団死)が強烈でした。ここでもあったのです。45年8月。それも日本軍不在の中です。ソ連軍に包囲されて、死のうと言う「住民」(居留民)。

 6:引き揚げ・再出発 引き揚げの苦労、シベリヤ抑留の酷さ。国内への再入植。

 7:望郷 阿智郷開拓団は45年5月に満州に入植。ソ連軍の侵攻で175名中47名が生き残りました。山本慈昭(じしょう)さんはここの生存者。戦後、残留孤児の帰国、保障の運動に生涯を捧げました。こうした人が居たから、この記念館も生まれたし、1個人の活動から日中友好手を繋ぐ会になり、ここまでの基礎を作ったのでしょう。ほめすぎなのかも知れませんが、やはり偉人だと私は思いました。

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 8:平和な未来へ 以下記念館のメッセージ

 《未来に向かって》 

 あの時代に問いかけてみます。

 なぜ、「満州」へ行ったのですか。

 今を生きるあなたに問いかけてみます。

 あの時代に生きていたら、どうしますか。

 日本と中国双方の人々に

 多くの犠牲を出した

 「満蒙開拓」とは何だったのでしょうか。

 長く人々の心の奥に

 閉ざされていた記憶に寄り添い

 向きにくい真実に

 目を向けるときがきました。

 この歴史から何を学ぶのか、

 私達は問われています。

 「負の遺産」を「正の遺産」へと

 置き換えていくこと、

 その英知が問われています。

 歴史に学び、今を見つめ、未来をつくる。

 同じ過ちをくりかえさないために。

 平和な社会を築くために。(以上)

 実に明晰な問いかけです。今の時代に不可欠な問いかけです。

 室内には来館者からのメッセージが掲げられています。

 皆様も是非お出かけください。事実を知って考えましょう。民主主義の畑を耕すために。平和を作り出すために。(ヤマヒデ)

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◎阿智村 記念館のそば

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◎阿智村にあった看板


 

 

 

 

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