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2016年11月12日 (土)

「宇井さん、今の沖縄をどう思われますか?」に参加してきた

 今日16年11月12日は、旅疲れから1日、辺野古テントを休ませていただいた。しかし起きたら10時30分。これではブログを書く時間がないし、洗濯や布団干しも無理。如何しようと思ったが、行くと決めていたのだから行くべし。決断ができなければ、那覇までとてもじゃないが行けない。

 今回の集会のことは、11月8日の新報の「論壇」欄で知った。後藤哲志さんが「宇井純先生、没後10年 沖縄の危機打開で対話」を書かれていた。

 そうか亡くなられてもう10年も経つのかと思った。彼は1986年に沖縄大学に招かれて、生涯初めて教授になったのだった。1965年に東大都市工学科の助手になり、「万年助手」と言われながらも、わが道を走ってこられた。

 ここでは直接今日の報告はしない(別の機会に)。しかし行ってよかった集会であった。宇井さんといえば、「公害の政治学」の著者であり、水俣病告発の立役者のお一人であり、水処理工学の先駆者でもある。むろん、公害自主講座(70年から85年)の主催者だった。

 私は70年に「公害の政治学」を読み、71年からのチッソ本社前座り込みにも参加した。公害自主講座にも何度か参加した。しかし、86年に沖縄大学に行かれたときは、やはり助手よりも教授のほうがいいのかなどとも思ったものだ。要するに当時の私の沖縄認識は、その程度のものだったのだ。

 今日の報告の中で一番印象深かったことは、80年代の金武湾闘争の話だった。あの時代、日本政府は金武湾を壊してでも、日本国の石油備蓄基地を造ることを至上命題にしていたと。植民地主義の体質は、当時も今も変わっていないと。今の辺野古、高江の事態に通じていると。

 最近の私は、この金武湾をあちこちから眺め、撮影する機会があるのだが、さまざまなことが隠されているようだ。今は軍事の問題から見ていることが多いが、やはり島暮らし、島の自立を考えれば、島にふさわしい最適な技術、最適な経済があり、地域があるはずだ。何が必要で、何が不要なのか。この問いを先日の石垣島、与那国島、宮古島から持ち帰ってきたばかりだったのだ。そこに後藤さんの投稿を読んだものだから、ズバリ宇井純さんのことを想起したのだった。

 今の沖縄の現実は極めて厳しい。高江・伊江島・辺野古、与那国・石垣・宮古、金を掴まされて黙らせられる、弾圧・差別、自治の思想と実践、などなど。課題ばかりだ。

 厳しいから、どういうつながりを造りながら立ち向かうのか。ここが問われている。今日の席に私はやや遅れて着いた。隣の女性から挨拶された。誰?(すいません) 沖縄国際大の先生だった。どうも辺野古で学生さんにお話したときの引率教員らしい。覚えていてくださったのだ。少しづつつながっていければ、中期的にはいいのだと思う。短期的にやらなければいけないことが多数あり、長期的に目指すべきことがある。その核心は自治の思想であり、実践だろう。其れを何処から手繰り寄せていくのか?

 私の自宅の近くに住むおじいと昨日も立ち話した。彼は辺野古の50年代からの歴史も知っているらしかった。今の高江の話にも通じていた。沖縄で、70年、80年を生きてきたことは重いことなのだ。おじい、おばあに学ぶことは、いやというほどあるようだ。同時にもっともっと若い人とのつながりをつくらなければと、切実に思う。

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